2014年12月26日金曜日

登頂回望・号外編(その8) [岬 光世]  /   網野月を 


早春の海へ踏切渡りけり      岬 光世


(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 康成の『雪国』の書き出しのようである。二十句の世界へ誘われるように、題「心待ち」の世界へ入り込んでゆく。海岸線に沿って走るローカル線を想像した。そのローカル線の踏切を海側へ越えて行ったのであろうか。座五の「けり」が不思議な情緒を描いている。作者自身が主語であるとするのが常識的であろう。がこれから始まる物語の主人公の行動のようにも思えるのである。

「心待ち」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2014年12月19日金曜日

登頂回望・号外編(その7) [堀本 吟]  /   網野月を 



沖萌えて一点透視せば産土    堀本 吟



題は「や!・椿闇・産土」である。前五句は句中に切れ字「や」を配置するように考案されている。中五句は「椿闇」のヴァリエーションである。後六句は雛、その他であろうか?掲句はその最後に配されている。その三句前「碑に海光映える雛流し」とあるので、流された雛の流れ着くだろう沖を想定して詠んだように、筆者は解した。しかもその沖が雛にとっての産土なのである。こう考えると、この雛はヴィーナスのように海の泡から生まれ出たものなのかも知れない。誤読をお許し願いたい。


「や!・椿闇・産土」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2014年12月12日金曜日

【『俳句新空間No.2』 平成二十六年[夏行帖]を読む】 第三夜 ふいに奥山~もてきまり~  /中山奈々



ある朝のことだった。ゴミ捨てに行こうと玄関を開けたら、頭から血を流した奥山が立っていた。

彼は、二年前から壊れているインターホンに木魚のリズムで頭突きをかましていた。ドアを叩けばいいものを、、、と思いながら手当てをしてやる。

その家のひとを呼び出すときはインターホンを押す。そうインプットされれば、彼はそれを貫く。いや違う。他の手段を思いつかないのだ。よく言えば律儀。悪く言えば融通がきかない。そんな彼にはこの世は生きづらい。

りすとらや新宿路地を牛蛙     もてきまり

驚きはなかった。また上司や同僚と合わなかったのだろう。自主退職という名のリストラだ。一度インプットされたことを変えない彼だ。それを逆手に取られる。きみには他にいい仕事があるはずだ。そう言われれば、彼は信用する。そうやって何度仕事を変えたことか。その度にこの部屋にやって来て、さていい仕事とは何だろうか、と尋ねる。いい加減気づけよと思いつつ、さあ何だろうね、と一緒に考える。僕も彼と同じだ。

たそがるるもよし海月にさへなれる

しかし今日はいつも違っていた。彼はごそごそとリュックから布を取り出した。布というよりは帯。というよりは。不思議な形の。それをすっぽり被る。

あ、袈裟だ。緑色に赤の水玉。水玉には金で縁取りがしてある。袈裟だから和風なのだろうが、色合いはクリスマスだ。そして何度も草間彌生の顔が過る。その不可思議な袈裟を、奥山は〈ノーライフ、ノーミュージック〉とカタカタが描いたTシャツの上から着けているのだ。そしてにたりと笑う。さっき巻きつけてやった頭の包帯にもう血が滲んでいる。

あのね、もうね、考えなくてもいいんだよ。ぼくね、見つけたんだよ。本当に本当にいい仕事。ぼくのね。本当にいい仕事を。

そういいながら、またにたり。で、壁に頭突き。壁、ドン。ドンドンドンドンドンドン。すると隣の部屋からドンドンドンドンドンドン。上の部屋からもドンドンドンドンドンドン。下の部屋からもドンドンドンドンドンドン。街中ドンドンドンドンドンドン。

つねの世にトリックスターゐて卯波

ふいに奥山、袈裟つけて。

2014年12月5日金曜日

登頂回望・号外編(その6) [前北かおる]  /   網野月を 



総身を日に煙らせて眠る山     前北かおる

 「身延山」の題である。四句目の「湯宿」は下部温泉あたりであろうか?とすると「眠る山」はどの山を指示しているのであろう。山国の谷あいの身延から見える山形は決して切り立ったものではない。木々の多い山々である。その山々が眠るのであるから、冬とはいえ日の光りの多さを想像した。霧がかかって、その霧に日の光が乱反射して山を「煙らせて」いるのではないだろう。日の光そのものが、視覚を遮っているのだろう。句中に助詞を多用して文体を構成しているが、句意は幻想的情景を叙していて、将に「煙らせて」いるようだ。


「身延山」(『俳句新空間No.1』 2014(平成二十六)年1月1日発行




2014年11月28日金曜日

登頂回望・号外編(その5) [小澤麻結]  /   網野月を 


ひらく手の雪は光となりにけり    小澤麻結

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

全体二十句の中では心象的な印象の一句。題「ひらく手」はこの一句に拠るものである。掌で受け止めた雪がキラキラと輝いて見えた、ということなのであろうか?
手の中で雪が光に化してしまったように、筆者には読めた。雪が融解し、気化し、光波となってゆくイメージだ。それらの状態の変化が一瞬に起って手の中から光線が拡散して行く景を想像した。「なりにけり」と落ち着いた文語表現が古典の世界(例えば『竹取物語』のような)を連想させる。

2014年11月21日金曜日

【『俳句新空間No.2』 平成二十六年[夏行帖]を読む】 第二夜 山の手線、廃線〜秦夕美〜  / 中山奈々



最後の議題です。動揺されている方も多いですね。みなさんの大半が、これを議題にする日がくるとは思ってもいなかったでしょう。私もです。しかしこの議題抜きにして、オリンピック成功はあり得ないのです。

そう。このトーキョーで三回目となるオリンピックおよびパラリンピック。これまでの二回は進歩を全面に押し出して来ました。交通しかり施設しかり。これはどこの国もそうですが。その反面、コスト面で大打撃です。投資だと笑っている場合ではありません。

確かに第一回目のトーキョーオリンピックでこの国は成長しました。しかしこれ以上の成長はむしろマイナスです。そこで逆転の発想といいますか、われわれは後進してみようと思ったわけです。
後進。そう、山の手線の廃止です。すでにトーキョーは毛細血管よりも行き届いたメトロの発達のおかげで、山の手線なしでも不自由はしないのです。


錦糸町涼しき音を放ちけり       秦夕美

スカイツリーと同じ墨田区にあり、押上駅からはたった一駅。しかし川の流れもひとの流れもなんとゆるやかなことか。天神橋、錦糸橋、松代橋。琴線、とまではいいませんが、あの場所独特の涼しい音。

東京メトロ半蔵門線。薄紫で描かれているあの路線です。


水無月の汐留駅は黄泉の駅

もうひとつ紫の路線があります。ワインレッド。ワインなんてお洒落なものを呑んでいるかわかりませんが、酔っ払いサラリーマンの地、新橋。そこに隣接する汐留駅は大江戸線。江戸。後進も後進。かつての名をつけるこの路線は山の手線よりも、東京23区を広く回るのです。少し歩けば、浜離宮。

新橋と浜離宮。まるでこの世とあの世の間のような。さらに、ゆりかもめに乗れば、お台場にも行けます。鎖国時代は外国船を追い払う砲台場でしたが、今やオリンピック会場として各国から選手、観客、観光客を迎えるのです。歴史の長さを感じます。

古都京都奈良に比べれば、トーキョーの歴史は浅く思えてしまいます。卑弥呼の墓とされる箸墓古墳を有していません。ましてや宇宙に繋がる糸魚川もありません。ならば何が出来るでしょうか。そうです。山の手線廃線です。これほどのインパクトあることがあるでしょうか。進歩しない。後進する。世界を驚かせることはこれしかないのです。

そこ、寝ないでください。われわれが今議論していることは、本当に重要なことなのです。だからいち早くここから抜け出ないといけないのです。

どうかここからわたしを出してください。


美しき嘘とはいへず吾亦紅




2014年11月14日金曜日

【(『俳句新空間No.2』 平成二十六年[夏行帖]を読む】  第一夜 ワルツは踊らない〜大本義幸〜  / 中山奈々



この街の話をしよう。出来るだけ君が飽きないように話すけれどね。どうかな。元来、話下手だしね。まあ聞いておくれよ。

街にはね、馬鹿でかいモニュメントがあるんだ。とある祭典のために作られたそれは、異形そのものだった。神々しくもあり危なっかしくもある。いつの時代も外れたものはあるのだけれど、それは特別外れていた。

高度経済成長期。そんな風にあの時代を呼ぶのかな。時代に乗るんじゃなくて、時代を作るんだってパワーがあちこちに満ちていた。パワーといっても、目に見えないことには仕方ないね。だから街を開発した。ベッドタウンに、医療施設、大学誘致、それであの異形のものを据えたのさ。

あれから何十年経ったかな。街は錆れた。いや錆れるようなものはなかったか。何もかも中途半端に進んでは、頓挫した。ただ医療施設だけは全国屈指の誇るべきものになったよ。

しかしね、その医療施設だって一部の限られた人だけさ。看てもらえるのは。大きなところで看てもらいたい、その、なんだ、われわれのような、少し金に恵まれないものは市民病院に行く。なあ、知ってるかい。市民病院をもじって「死人病院」なんていうのを。誰も表立って言わないけれど。あるんだよ、そういうものはさ。見ないように聞かないようにしているだけで。


あの陰影死者を運ぶエレベーター    大本義幸
病院で死ぬということ犬ふぐり

ここと隣街との間には川が流れていてね。ブルーシートが川に沿って綺麗に並ぶんだ。それが何か、君に分かるかい。


死体を隠すによい河口の町だね    大本義幸

隣街は県庁所在地だし、こっちは高度経済成長期の異形を遺す地だ。どちらの街も、少子高齢化を嘆き、子育てをしやすい街を目指している。大事なことさ。でもこの街に住む子どもに戻っていく老人たちはどう住めばいいのかな。知っていたら、教えておくれよ。

老犬がひく老人暮れてゆく          大本義幸


2014年11月7日金曜日

登頂回望・号外編(その4) [中西夕紀]  /   網野月を 


さき烏賊を誰か食ひをる暖房車   中西夕紀

どの顔も日当たりて似る枯野かな

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 前の掲句は、実感である。誰しも経験があるだろう。「暖房車」の斡旋が秀逸である。ちょっと迷惑で、少しばかり不快感がある。一方で空腹な自分自身を思い遣る作者でもあるのだ。題「敬虔」を逆表現していて諧謔の頃合いを得た句である。後の掲句は、これも季題の「枯野」がピッタリだ。日が当たって「どの顔も」ハレーションを起こしているのであろう。四季を通じて起こる現象ではあるが、筆者はそれを冬に固定した。乾燥した世界での現象に固定している。虚子の『五百句』を思い起こすが、全く別のものである。

2014年10月31日金曜日

さらりとした違和感~佐藤りえ「麝香」を読む / 浅津 大雅

(俳句新空間No.2ー夏行帖ー「麝香」 佐藤りえ より )


引っかかりなく読めるのに、次々と謎が湧いてくるような印象を持った、「麝香」から。

親切にのしかかられて心太

心太は多くの場合、「天突き」とよばれる道具で糸状にされて食される。人間からすれば、これは「押す」という行為に相違ない。けれど、心太の立ち位置になると、「のしかかられて」いると感じるのもうなずける。それも、「親切に」。この親切心はどこに働いているのか。心太に対してだろうか。食べる人に対して、と読んでもよいなら、ただただうれしい。

日傘など呉れて優しい男かな

日傘を呉れるという状況は、かなりあやしい。男は初めから、日傘を渡すつもりで用意していたとしか思えない。その日傘には単なる優しさ以上のものが含まれている――というのは深読みだろうか。どちらにせよ、作中主体(おそらく女性)の目に、悲しいかな、この男は「優しい男」以上の映り方はしていない。

濡れてゐる闇から帰り瓜を切る

濡れてゐる闇、とは? 雨中か雨後か、あるいはしっとりとした夏の夜の空気か。そこから帰ってきて、瓜を切るという行為に戻る。おそらくこの瓜も、闇と同じくらいしっとりとしているのだろうと思う。

水の痕消えない布を叩きをり

水の痕は、しばらくすれば乾いて消えるのだろう(特殊な化学反応で滲みになってしまうとかなら、ともかく)。しかし、それがなぜか消えない。消えるまで待てないだけだろうか。水を溢してしまった布を、必死になって叩いている。水の痕を隠そうとしている。けれど、叩いたところで消えるはずがない。延々とループする行為の果てには、おそらく、やっぱり水が乾いて痕が消えるだけなのである。

おとなしく麝香を嗅いでゐればいい

そうなのか。麝香を嗅いでゐればいいのか。それも、おとなしく。表題句となっているこの句が、実はいちばん謎なのではないか。あの濃密な香りが鼻をつくので、なかなかおとなしくはできない気がする。そわそわしてしまう。だからこそ、おとなしく麝香を嗅いでさえゐれば、なんとなく許された思いになるのかもしれない。


蹠を孔雀の羽根で擦る係

当然、こそばゆい。孔雀の羽根といえば、目のような模様が入ったあの大きくて派手な羽根が思い浮かぶ。およそ、「蹠を擦る」という役割には適していないところに面白さがある。そして、そういうことを役割にする係の人がいる。係ということは、その仕事を一手に引き受けている。目の前に並ぶあしのうらを、手に持った孔雀の羽根で順番にくすぐっていく。

火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ

いきなり、はっとさせられる句に出会った。火をつける時、人間はその火に注視する。そして、その人自身が火をつけているにも関わらず、その熱と光が発せられると同時に、目の中に動揺が浮かぶ。目の中には火が像を結び、あるいはまぶたがぴくりと動く。人間の根源的な火への畏怖を垣間見た思いがする。

まひまひの睡りや雨後の木の股に

「睡り」にファンタジーがあるとしても、これはわかりよい。まひまひ、木の股、という措辞がユーモアを添えているようにも受け取れる。あたり一帯をつつみこむ雨上がりの匂いが、まひまひの睡りをより一層おだやかなものに仕立て上げている。




【執筆者紹介】 


  • 浅津大雅(あさづ・たいが)

平成八年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。現在、京都大学文学部在学中。

2014年10月24日金曜日

登頂回望・号外編(その3) [もてきまり]  /   網野月を 

七転びころびしままの黄巻貝    もてきまり

八百八町かげろふの縁貝の縁




(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 二十句が数え歌のように一から二十まで笠付けになっている。掲句はその第七句目と第八句目である。題も「二十吃(く)」となっている。季題は順不同であり、二十句の句意の統一性はない。折句、折端、笠付、などにその趣旨はちかいものであろう。一句一句の句意はそれだけに極めて幻想的で、捉えどころのない句に思えるが、二十句の総体として鑑賞すると、そこにレースのような質感が編み出されていることに気付く。一本の糸の捩れを追う読者を翻弄しているかのようだ。






2014年10月17日金曜日

登頂回望・号外編(その2)[小林千史]  /   網野月を 


春の鹿群れを離れて汚れゐて    小林千史

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)


春鹿にとっては大変な事件があっただろうが、作者の目からは座五の「汚れゐて」が重要なのである。眼前の鹿が汚れていることが作者の琴線に触れてのである。中七の「て」と座五の「て」と重ねる方法で、句のリズムを意図的に作り出している。二次元的世界で別方向へ中七と座五を導いているのではない。それではその二本の導線が元の方(逆の方)で交わってしまうからだ。二本の導線は三次元的に配置されて交わらないようになっている。同じ春鹿の状態を表現している語なのであるが、そうすることによって、春鹿の群れから離脱した孤立感や「汚れゐて」から来る切迫感が演出されている。

2014年10月10日金曜日

登頂回望・号外編(その1)[仲寒蝉] /  網野月を


冬麗や廃墟の石の尖りにも    仲 寒蝉


 (『俳句新空間No.1』「新春帖」平成26年1月1日より)

海外での句作は季語の問題などからも困難さを伴うものである。「アストゥリアス」の題が付されていて、スペイン北部の州アストゥリアスへの紀行俳句のようである。二十句には作者の好きな研ぎ澄まされた対象を詠み込んでいて、極めて先鋭的な感覚が伝わってくる。「寒月光とどくや沼の底の剣」、「巡礼の道にしたがふ冬銀河」、掲句、「石の壁いちまい冬の日に対す」「尖塔に凍雲触れて過ぎゆけり」などなどだ。対象の質感をそのまま句の中へ取り込もうと意図している。それだけに語句が生のように感じるのだが、それも作者の術中に筆者がはまってしまったからであろう。筆者はレンタカーでバスクから聖ヤコブの道を辿ったことがあるが、残念ながらアストゥリアスは通過地点であった。このような水分の比較的少ない土地柄で、句作することは難しいと思われるが、作者は見事に成し遂げている。(『俳句新空間No.2』より転載)







2014年10月3日金曜日

ドラマチックな私事ですが / 仮屋賢一

(『俳句新空間No.2 』平成二十六年甲午俳句帖 花鳥篇より)

 日常であれ非日常であれ、それをドラマチックに描けるとすれば、結局それはその人の感覚しだいであると思う。俳句は小さなドラマである。すごく素敵で私的な、ドラマ。

念力のやうな音して冷蔵庫  しなだしん

家電製品が魔法だとか念力だとか、いつの時代の話だろう。この冷蔵庫も電気冷蔵庫のことだろう。氷がなくたって中に入れればものが冷えるのはもはや不思議でもなんでもない。でも、ただ冷やすだけにしては、音が多い。大きな、多機能の冷蔵庫になるとなおさら。一体コイツ、何してるんだろう、そんな気にもなる。持って回った言い方でとぼけているような面白さがありながらも、「念力」が言い得て妙である。

神々の混み合つてゐる青嵐   仲寒蝉


語りは極めて明快。夏の句で「混み合つてゐる」と言いながらも一切暑苦しさを感じない面白さ。いや、でも、もしかしたら、神々たち張本人は、不快なのかも。神々のなんとも暑苦しい光景が、人間界では(多少荒々しいが)情緒ある自然の風となっている。と言ってしまうのは、少しばかり不謹慎か。

語り合ひ笑ひ緑蔭出てゆかず   長嶺千晶

なんだかんだ、ずっといる。日の動きに従って、ちょっとずつこの人たちも動いているのかもしれない。話に夢中になっているようで、そういうところはしっかりしている、というより、このような避暑は人間の本能なのかもしれない。いかにも居心地の良さそうな、緑蔭である。

薔薇の名を残念なほど忘れけり   西村麒麟

薔薇ほど多くの品種が作られ、それら一つ一つにユニークな名前が与えられる観賞花も珍しいように思う。普通に生活してれば、数種の名前を知っているだけで上出来である。とはいえ、薔薇好きの人が話をしてくれたり、薔薇園を回ったりして、色々な薔薇の名前と触れることもあるだろう。へえ、そんな名前が! なんて、その時は楽しんでいる。そしていざ、後になって、そういえば面白い名前があったな、なんて思いだしてみたら……「残念なほど忘れ」ている。冗談じゃなく、「残念」なのである。

致死量を超えてピーマン肉詰めに 山本たくや

包丁を入れられたと思ったら明るくしてくれていた、なんてことがあったり(「ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子」)、素材を活かした料理を作ってくれたと思ったら殺されそうになっていたり(掲句)、ピーマンの俳句での扱いはどうしてこうも同情したくなるのだろう。ピーマンという野菜は料理の光景がいちいちドラマチックである。致死量なんて言葉の恐ろしさとは裏腹に、たっぷり肉詰めされた様子がいかにも食欲をそそるし、逆説的に生き生きとした新鮮なピーマンも見えてきて、なんとも美味しそうである。同情したくなりはするが、結局、同情なんてしない。これが、ピーマンなんだろうなあ。


(※冊子「俳句新空間」ではブログ掲載の俳句帖を作者名あいうえお順に掲載しています。)

【執筆者紹介】


  • 仮屋賢一(かりや・けんいち)

1992年生まれ、京都大学工学部。
関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。





2014年5月23日金曜日

【俳句新空間No.1を読む】  『俳句新空間No.1』を読む(転載)/陽美保子


良き人と書いてあるなり鳴雪忌    西村麒麟
(『俳句新空間』No.1)

 鳴雪忌は、内藤鳴雪の忌日で二月二十日。鳴雪の俳句は、〈初冬の竹緑なり詩仙堂〉、〈只頼む湯婆一つの寒さかな〉くらいは知っているが、それほど人口に膾炙しているというわけでもない。子規に俳句を学んだというが、俳句より江戸俳諧の研究の方が知られている。どんな人だったのだろうと調べてみると、「良き人」と書いてある。その単純明快な記述が、いかにも温厚実直な人柄を思わせて好ましい。この言葉を、これまた素直に受け取った作者のお人柄も一句に滲み出ていて、思わず顔がほころぶ。

水鉄砲最新式でありにけり      麒麟

 最新式とはどんな仕掛けのある水鉄砲なのだろうと想像が膨らむ。また、その水鉄砲にやられて、「参った、参った」と言っているお父さんなども想像され、楽しい一句である。まったく説明しないことにより、読者の想像力が刺激され、一句が大きくなる好例だ。

 〈雑に蒔く事の楽しき花の種〉〈鉄斎の春の屏風に住み着かん〉〈いただけるならもう少し冬休〉など自在。

 (以上「泉」5月号より転載)

2014年5月2日金曜日

ブログから紙媒体へ-平成二十五年癸巳俳句帖を読んで- /小澤麻結

好みの珈琲を選んでご覧というような表紙絵が、摂津幸彦氏の手による、という贅沢がまずあるこの冊子ですが、内容のほとんどは既に知っています。平成25年に週刊「BLOG俳句空間-戦後俳句を読む-」に掲載された「歳旦帖」「春興帖」「花鳥篇」「夏興帖」「秋興帖」「冬興帖」と二十四節季題詠句等で、新作は平成二十六年新春帖だからです。

以下に、「歳旦帖」を例にして個人的な印象を述べます。ブログでは、年初の読み応えある句帖であったと記憶しています。お声掛け頂き、私も「俳句帖」6シリーズに参加させて頂きました。

それでは、ずうずうしくもこの冊子に何を期待したかといえば、発表形態が電子データから紙ベースになると印象はどうかという点です。私は筑紫磐井氏の<ブログから紙媒体へ>との試みを面白いと思いました。ブログでは、各「俳句帖」は四~八週にかけて、数名毎に掲載されました。それが冊子では一挙に掲載されます。巻物を広げたように、その季ごとの句が繰り広げられるのを読んだなら、どう感じるかを体験してみたいと思いました。

第一印象は「困惑」でした。冊子では、句の掲載順が到着順からあいうえお順に変更になっているので、最初はそのためかと、思ってみたりしました。ブログでは、各人の句が独立していましたが、ページを埋めるように句が並びます。期待した通り巻物を伸べたようではあるけれど、何というか混沌としていました。ひと通り最後のページまで読み、繰り返し読んでみました。

そして私は自分の固定観念に気付きました。無意識に、多数の句の流れに意味を見出そうとしていました。調和を求めたからこその困惑だったのです。この冊子は系統の異なる俳句を愛する者たちの多様な作品集なのです。混沌が当然だし、むしろそこから生まれる力を味わえばいいのでした。

且つ多種多様な句が行合ながら掲載されることで、全体としてその季らしさを表現し得ることができるのです。読者は、自身に呼びかける歳旦を祝う句を好きに拾うことが可能です。俳句の宇宙のようです。これはこの冊子の楽しみ方の一つだと思います。

紙ベースでは、ページを繰ることは視野が広がってゆくかのように感じます。これは私が紙ベースの方が慣れているからかもしれません。冊子では穏やかに情報が続き、心惹かれる句にはゆっくり立ち止まることができます。

一方ブログの場合は、展開は潜行型に感じます。光として飛び込んでくる情報は、強い印象をもたらしますが疲れます。ブログで、冊子のように各俳句帖を一気に見せられたら、ボリュームを確認した時点で閉じてしまうかもしれません。数名毎の掲載は聡明なご判断なのだったと得心しました。
また、ブログで読んでいた時には、各俳句帖を全体として考えたことはありませんでした。勿論考える必要も感じませんでした。ですが冊子として手にした時、1句1句を一つの季の構成要素として味わいたいと自然に思いました。改めて冊子と電子媒体は、用途が異なることを実感しました。それぞれの良さを活かすには、工夫が必要なのです。

俳句帖を紙ベースで読んだことで、私は少し自由になったように思います。不自由だったというわけではありません。空間が広がった気がしたのです。新しい空間に出会いました。俳句新空間です。


【筆者略歴】

  • 小澤麻結 (おざわ・まゆ)

「知音」同人。句集『雪螢』、共著『超新撰21』。






2014年4月25日金曜日

【「俳句新空間No.1」を読む】 ときに劇的な /  堀下 翔


思ったことを書く。

梅咲いた。人わらはせる芸つらし 堀本吟

つらい。他人はなかなか笑ってくれない。これでもかと笑わせにかかって、ようやく笑ってくれたとしても、今度は「自分、どうしてこんなことをしているのだろう」と情けなくなって、つらい。芸をする人はみんなそうだ。この国で初めて芸をしたひともそうだった。古事記に登場する海彦のことである。永六輔の本から引く。

「海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。/それ以来、海彦の一族はその負けたときのありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるんです。/神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。」(永六輔『芸人』岩波新書・一九九七年)

海彦、つらかったろう。人を笑わせることはもともと罰だったのか。

ところで古事記はこの海彦を「わざおぎの民」と呼んでいる。わざおぎ、「俳優」と書く。俳人としてはここで一気に彼に親近感がわく。俳優も俳句も、同じ「俳」の字を持った仲間だからである。同じ字である以上、どこかしらで繋がっているのだと思う。ただそれは、また別の話になる気がするので、置いておく。ここでは無邪気な連想ゲームにとどめておいたほうが、気楽だ。

俳優といえば、劇。俳句を読んでいるとときどき、俳句と劇は似ている、と思う。まず第一に、見せられたものしか知ることができない。

宝舟すこしはなれて宝船 堀田季何
宝舟と宝船がありました。それだけしか教えてくれない。どうしてふたつあるの。どうしてすこしはなれてるの。どうして舟は種類が違うの。明快で親切な小説なら、このあと地の文でいきさつを書いてくれるかもしれない。けれどもここでは、舟がふたつあるところを見せて、それっきり。

コミュニケーションが成り立たない。舞台上にある大道具、あるいは意味ありげに発せられた科白。舞台の構成物でありながら、その目的は、向こうが説明しない限り、分からない。この一方向性においてまず、俳句と劇は似ている。

夏芝居後姿の泣いてゐる 小沢麻結
芝居を見ていて、役者の後姿が泣いているように見えた。理由があるのかもしれないが、聞くことはできない。後姿が泣いているように見えた時点で、俳句にしてしまったから。こっちから話しかけることができないのは、ものすごく一方的で、ちょっと理不尽である。

おしぼりが正位置にある福寿草 上田信治
どうして正位置なの。どうしておしぼりなの。おしぼりが正位置にあることしか、わからない。もっと言うと、どうして福寿草なの。この問題は、取り合わせの俳句を読むときに、ずっとついて回る。どう考えてもこの季語以外にありえないのだが、なぜそうなるのか、見当がつかない。やはり、理不尽。

劇が面白いのは、劇場で見るからだろう。劇場に入ることで、仕切りが生まれる。

一時間前ははうれん草畑 依光陽子
一時間前、ほうれんそうと土の色に囲まれていた。いまはどこにもないが、あのあおあおとした感じが、まだ体のどこかに残っている。「まだ」と思うのは、ここがほうれん草畑ではないからだ。どこまでも仕切りなくほうれん草畑だったら、なんとも思わない。

鳴りやんで涼夜や耳鳴りだったのか 池田澄子
耳鳴りが止まって初めて耳鳴りだったと気づく。仕切りがあるから気づく。もちろん、耳鳴りなんてしないほうがいいけれど、それでもびっくりするのは楽しい。

劇場は仕切りだ。そしてそのなかに、舞台という仕切りがある。

我を指す人差指や師走の街 林雅樹
包丁ら青々として芒種の町 小野裕三

この仕切りは、劇作家が作る。ここから先は師走の街である、芒種の町である、そう決めました、と。一方的な仕切り。見る人間は、従う。その人々はたいがい好意的なので、従うのが楽しくて来る。小説家が、師走の街をいかに読者に歩いてもらうか、必死になるところを、劇作家は、俳人は、「師走の街」と言えば、とりあえず信じてもらえる。つくづく変な形式だと思う。

信じてもらえるのは、このあと何かが起こるという、信頼関係があるからだ。「劇的な」という形容詞があるように、劇は、何かが起こる前提にある。「劇的な」という言葉の「劇」を「激しい」くらいの意味で思っている人が多いけれど(じじつ「劇」の第一義は「激しい」である)、「劇的な」というときには、劇に出てくるようなありさまを言う。

北窓を開きそのまま海のひと 近恵
窓を開けるという物理的な行動によって、春を呼ぶ。開けたら見える海に、そのまま同化してしまう。快感。そして劇的。書いた後に思った。この言葉、少し便利すぎるかもしれない。短い俳句のことだから、起承転結の「転」を持ってきたくなる。

新涼の神父三角座りだが 岡村知昭

神父が三角座りの時点で、かなりどきっとする。秋は寂しくなりやすい季節であるにしても、神父ともあろう者が、三角座り。しかも話はここで終わらない。「だが」って、まだ何かあるのか。二転三転、ドラマチック。

ドラマチックになるという信頼感は、ときに先走る。

電話機を見れば鳴りさう秋の昼 林雅樹

電話なんて一日のほとんどを沈黙しているのに、鳴りそうに見える。電話が鳴るわずかな瞬間こそが、電話の本領だから。あの電話、鳴るぞ。鳴っていないうちから思う。

幽霊の飛び出しさうな冷蔵庫 小久保佳世子
冷蔵庫は幽霊が飛び出してくるもの……ではない。死体が入っていることはあっても、幽霊が出てくるなんて話、ちょっと聞かない。「幽霊の飛び出しさうな(状況下にわたしの目の前にある)冷蔵庫」と言えば、少しは理屈で説明できそうだ。怖い話を聞いたあと、トイレに行けないのと同じ。幽霊が出るにちがいない、という期待。

盆の家みんな眼鏡をかけてゐる 仲寒蝉
そこにいる人みんな眼鏡。もしかしたら気づかないだけで、日常にそんなケースはたくさんあるかもしれないが、ここはわざわざ区切られた舞台だ。みんな眼鏡をかけていることが、意味めく。
劇に必要なものもう一つ、演技。

頬被りして笑い皺深うせり 後藤貴子
鬼灯の赤を呪ひの道具とす 中山奈々

何かを身につけたり、使ったりすることで生まれる仕切り。劇作家の平田オリザが、書いていた。「プライベートな空間では、演劇は成立しにくい」(平田オリザ『演劇入門』講談社現代新書・一九九八年)。頬被りをすること、鬼灯を道具にすること、そんな変化で、劇が始まる。

はつとして今虫売でありにけり 西村麒麟

演じている自分までびっくりするくらい、演じる。なんで自分は虫売なのだろう。何者かになる行為自体が、ドラマチックである。見る方も、見せる方も、劇の中で、だまされる。

松だよとだまされてをる小春かな 山田耕司
だまされていると知りながら、いい気分になっている。ううん、劇も俳句も、不思議な営みだなあ。




【筆者略歴】

  • 堀下翔 (ほりした・かける)

1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。俳句甲子園第15、16回出場。
現在、筑波大学に在学中。




2014年4月18日金曜日

平成二十五年癸巳俳句帖より(その2) / 黄土眠兎

平成二十五年癸巳俳句帖シリーズを振り返って「ロイヤルコナチーム」のヘッドコーチのノートが見つかりました。このラインナップでいくそうです。

コナチーム ヘッドコーチのノートより

一番 前北かおる  アネモネや青山フラワーマーケット
何にも言ってないよー。お花のことしか言ってないよー。花屋のカフェが美味しいんだよー・・・なんて事、ひと言も言ってないよー。でも、美味しいんだよーと言いながら地方出身の投手をうっとりさせて打って出る。アネモネ、青山

最強伝説の始まり。

二番 近恵  滴りの膨れて鈴になるところ
トップバッターがさりげなく塁に出たところへ、鈴になるまで溜め込んでいた滴りパワーを強打して出塁。苦しかった練習の汗が滴りの姿を借りて実を結ぶことを暗示している(と信じたい
byヘッドコーチ)

三番 三宅やよい  東風吹かばやさしく沈む膝枕
おねーさんが膝枕してくれるんだって・・・という噂を東風に乗せて試合前に吹聴しておいた。情報戦でらくらくヒットだ。

四番 津髙里永子  恋するか死ぬか炬燵の脚ぐらぐら
えーっ、二択なの!究極じゃん!

その前に炬燵の脚くらい直しとこうよーという相手からのツッコミが来たところをヒット。塁に出るためならバットを炬燵に変えてでも打って出る。

五番 水岩瞳  連打して冬の怒濤になるピアノ
こうなったら連打しかない。えっ?連打が違うって?

ピアノも連打してたら冬の怒涛になるんだから、大丈夫。ラフマニノフピアノ協奏曲第2番でトリプルアクセルを決めて塁に出たい(野球じゃなくなってしまった。どうしよう)。

六番 矢野玲奈  産み月の一夜一夜に秋深む
産み月のカウントダウンはけっこうきついのよ。暑い夏を乗り切ってもうひと息という妊婦は誰にもとめられません。バッターボックスは優先。立ってるだけで観客全員が味方。塁に出られないはずがない。もちろん代走はつけるわよ。

七番 曾根毅  花の雨ことにやさしき地の窪み
ここで投入するのは「秘すれば花」作戦。想像力を刺激するのよ。相手に悟られる前にボールを見極めて出塁。

八番 太田うさぎ 内裏雛その隔たりに塵置かず
走者一掃のためにも塵はおけません。お内裏さまの立ち位置はどちらが右?どちらが左?という問題は取りざたされるけど、その間にあるものは見落としていたわ。視点が違うわね。うん。

九番 中山奈々  葉桜や臨機応変にも限度
ノートには書いてなかったけど・・・代打。

葉桜になるまで我慢したの。ヘッドコーチのサインのいい加減さにはうんざりだった。わたしはもう自分の思う通り振っていくよ。・・・カーーん。ほら来た!(by 奈々)

監督 池田澄子  涼しくて嬉しくてあ~立眩み
ええっ!監督そんなこと言ってる場合じゃないですよ。今シーズンどうするんですか!
またまた打順を組んでしまいました。『俳句新空間』の歳旦帖は、それぞれの句が置かれた場所で力を発揮してくれるので打順を組んでいてどのチームも負ける気はしないのですが、勝負は時の運。さて、どのチームが優勝するのでしょうか。

今シーズンの俳句帖もがんばります。

なお、途中からヘッドコーチがおねー言葉になってる部分はお見逃しくださいませ。



【筆者紹介】
  • 黄土眠兎(きづち・みんと)
1960年兵庫県生まれ、兵庫県在住。「鷹」同人、「里」人。




2014年4月11日金曜日

平成二十五年癸巳俳句帖より(その1) / 黄土眠兎

『俳句新空間』刊行おめでとうございます。

表紙が可愛い!お洒落ー!なのに、郷愁を誘う表紙絵、トアルコトラジャコーヒーの文字に釘付けになりました。そこで、歳旦帖より(勝手に)「トアルコトラジャチーム」なるものを作り打順を組んでみました。そして、「トアルコトラジャチーム」の対戦相手「ロイヤルコナチーム」の投手になりきって歳旦帖シリーズを振り返ってみることにします。


コナ敗戦投手の記憶。


一番 月野ぽぽな 元旦の空ていねいにやぶきます

いきなり初球から打たれた。「元旦の空もわたしにかかったらこんなものよ。ふふふふん。」と。一緒にニューヨークの元旦の空をやぶってみたい気持ちになってしまったじゃないか。でも、思いとどまった。・・・大リーガーはすごい。


二番 山田耕司  信仰やいやいやをしてせんぷうき

扇風機の首振り機能に「信仰の自由」を発見してしまった!ボタンひとつで寝返る(信仰)こともあるけど、押しっぱなしだと電源を喪失するまでいやいやしたままじゃないか。いや、信仰は電源を喪失してもいやいやしたままなのだ。下五までねばられ、また打たれてしまった。


三番 西村麒麟  流星を見てトラックは次の街

何のトラックかどんな街なのかはわからない。サーカスかしら?ひと仕事終えたトラックが次の街に行く様子が、「流星」を出してきたところでぐっと胸に迫ってきた。油断した私のグラブを弾いてヒット。満塁になってしまった。


四番 筑紫磐井  初雛の隣家にスタア誕生す

四番かあ・・2ストライクから・・この少子化の時代、「初雛」で「スタア誕生」ってプリンセス誕生じゃないか!ドヤ顔の満塁ホームラン。やられた。


五番 下坂速穂  瓜の馬寄り道をして帰られよ

さ、気を取り直して・・と思っていたら、お盆に帰って来られた親しい人(ご両親だろうか?)の魂に、もっと長く居てほしいという気持ちがひしひしと伝わってくるじゃないか。その優しさに打たれてしまった。

六番 福永法弘  不器用を武器とし愛の四月馬鹿
「不器用を武器」にするなんてどこの馬鹿?と思ったんだけど、四月馬鹿なのね。しかも「愛の四月馬鹿」なんて・・・もうそのフォームでまいっちゃった。身を張って(デッドボール)出塁。


七番 藤田踏青  宵山の汗汗汗の人柱

人柱の意味がちょっと違うかな?とも思ったんだけど、祇園祭の宵山を知っているものにとって、この絵画的表現には大きく頷くしかないんだよね。手がすべって汗をもう一つ投げてしまった!フォアボール(四汗)になっちまった。


八番 小久保佳世子 人だつたかしら月夜の交差点

「人だつたかしら」なんてとぼけたことを・・・と、なめてかかって変化球を投げたのに、「月夜の交差点」とあっさり打たれてしまった。それは、人じゃなかったような気がします。参りました。


九番 仲寒蝉   春の闇人のかたちになれば抱く

春の闇にはいろんなものがいそうだなあ。人のかたちになったら抱くって?元は何でもいいの?河童でも?その金本兄貴並みの器量の大きさに負けました。

監督 高山れおな  秋風や無学哲学みなあはれ

虚子もびっっくり。無学は「あはれ」なのかなー?と、考えこんでいるうちに・・私のシーズンは終わった。今はもう秋風が吹いている。あはれ。




選抜された作者のみなさんごめんなさい。ビビっと響いた好きな句を並べた勝手な解釈でのオールスターでした。

今年も始まっている歳旦帖。トアルコトラジャチームの四番を越える打者が登場するのを甲子園でお待ちいたしております。

トアルコトラジャチームに栄光あれ!


<続く>


【筆者紹介】
  • 黄土眠兎(きづち・みんと)
1960年兵庫県生まれ、兵庫県在住。「鷹」同人、「里」人。




2014年4月4日金曜日

平成二十五年癸巳俳句帖・中山奈々の句を読む /小鳥遊栄樹

私が尊敬する俳人の一人、中山奈々さんの俳句を鑑賞させていただきます。

【春興帖】

季語が春いろはで統一されている三句でした。歳時記で調べてみたところ、春いろはという季語は見付からなかったので、いろは→色葉→秋の季語、紅葉の傍題→春の色葉は桜?と個人的な解釈で読ませていただきました。作者の視点としては、保育園や幼稚園の先生が児童を見ているような視点の句のように思えました。

包装紙切つて花びら春いろは
包装紙を切って花びらを作っている。花びらが貼られている画用紙はきっと春で溢れているのでしょう。

春いろは最後に抱きしむる遊び
おままごとをしている景でしょうか。最後は抱きしめて「おやすみ」で終わる優しい雰囲気の句に思えました。

母を見るための眼や春いろは
子から見る母はやはり偉大だなと思わせてくれる句でした。

【花鳥篇】


葉桜や臨機応変にも限度
私が中山奈々さんの俳句の中でも好きな句の内の一句です。桜から葉桜に変われるけれど、臨機応変にも限度がある。滑稽味があるようにも思えました。

ほととぎす薬の殻の角曲げる
錠剤が入ってる銀色のシートの角を曲げている無機物感とほととぎすの取り合わせは新鮮だなと感じました。

ほととぎす泰淳著書はみんな書庫
武田泰淳は日本の小説家。第一次戦後派作家として活躍。主な作品に『司馬遷』『蝮のすゑ』『風媒花』『ひかりごけ』『富士』『快楽』など。 (Wikipedia参照)和風な一句ですね。著書が書庫にしまわれている静かさとほととぎすの取り合わせは綺麗だなと思いました。

【秋興帖】

ホラーチックな三句でした。色をテーマに詠まれているのかなと思いました。

鬼灯の赤を呪ひの道具とす
言われてみたら呪いの道具として使われていそうな赤色をしているなと思いました。

心臓の色のチークや雁渡し
凍星や臓器それぞれ違う色(ローストビーフさん)をふと思い出しました。チークを心臓独特の色(個人的には赤くくすんだ肌色を想像しました。)と表現したのが面白いなと感じました。

禰宜のあを巫女の赤銀杏踏みぬ
禰宜(ねぎ)とは、神職の職称(職名)の一つである。「祢宜」とも書く。今日では、一般神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称となっている。(Wikipedia参照)巫女さんが銀杏を踏んだ景でしょうか。不思議な雰囲気の句だなと思いました。

【冬興帖】

季語が冬帽で統一されている六句でした。家族的な暖かさが感じられる六句でした。

冬帽を二つ挟んで妻の顔
夫(父)目線の句でしょうか。冬帽をかぶってる子供二人を抱き締めてるような景が浮かびました。

冬帽の二人とも貴方の子ども
やはり夫か妻目線の句なのでしょう。一句目があったので夫目線ということで読ませていただきます。この句は一句目の続きでしょうか。妻が子供を抱き締めてるのを見て夫がふと言った言葉のようにも思えます。

冬帽の色か黒子で見分けたる
この子供はよほどそっくりな兄弟か双子かのどちらかなのでしょう。私の友達にも目が怖そうか優しそうかでしか見分けられない双子の友達がいます。

冬帽のよく笑ふ歯抜けで笑ふ
笑顔が可愛いお子さんですね。歯抜けってことは、結構小さなお子さんなのでしょうか。

冬帽は悪童冬帽は双子
冬帽=悪童、冬帽=双子、つまり双子=悪童なのでしょう。いたずら盛りの可愛いお子さんですね。

【歳旦帖】

ボス猿がテーマの五句でした。ベンツは、大分県大分市高崎山の高崎山自然動物園のニホンザル(Wikipedia参照)

去年今年ボス猿二回目の家出
この場合の家出は猿の群れを離れるという意味での家出でしょうか。家出の使い方が面白いなと思いました。

新月の新年ボスの名はベンツ
新月、新年と来て、このボスは新しいボスなのかなと思ったりもしました。

ボス猿のなき山姫始めのびのび
ボス猿がいたら姫始めものびのびできませんよね。クスッとくる一句でした。

猿人気ランキングあり福寿草
動物園の猿でしょうか。私は動物を見分けるのが苦手ですが、やはり一匹一匹名前があって違いがあり、好感度も違う。ランキングがあるのが人間味もあって面白いなと思いました。

歯固めのクッキーやボス猿模して

ボス猿が歯固めのクッキーを噛んでいるのを見て、雄猿がそれを模しているのでしょうか。個人的に月夜を想像しました。

以上、小鳥遊 栄樹による中山奈々さんの俳句鑑賞でした。

拙い文章でしたが、最後まで読んでいただけたらとても嬉しいです。



【筆者略歴】

  • 小鳥遊 栄樹 (たかなし・えいき)

沖縄俳句会「若太陽」所属、関西俳句会「ふらここ」所属、俳句誌「里」同人、俳句誌「群青」同人、メール句会「立体交差」参加、インターネット句会「週活句会」参加





※編集部注:上記の歳旦帖の中山奈々さんの句は平成二十六年歳旦帖第二のブログ掲載作品であり、「俳句新空間」の冊子収録句ではありません。原稿のまま掲載させていただきました。

※文中の(wikipedia 参照)は記事内容に従いリンクしました。