2015年9月4日金曜日

【俳句新空間No.2】 秦夕美作品評/真矢ひろみ



錦糸町涼しき音を放ちけり   秦夕美

 錦糸町の地名の由来は、北口にあった「錦糸堀」とも「琴糸」の工房があったなどと言われるが詳細は不明。現在、北口周辺は現代的な都市空間となっているが、南口側は古くからの歓楽街が色濃く残り、今なお猥雑な雰囲気を醸し出す。実は筆者の通学路でもあった所で、数十年前は飲み屋、ポルノ映画館、風俗店、路地に入れば安アパートなどが並び立つ、東部下町の典型的な街であり、南口方面には今なお名残りがある。

 句意は「あの『如何わしく、禍々し』かった錦糸町周辺の雰囲気もすっかり変わり、『気持ちよく涼しげ』な快音が聞こえる街になった」と、「猿蓑」凡兆の「市中は物のにほひや夏の月」と趣きを同じく、猥雑に清涼を見取る句と解されるだろうし、一方、地名という一種の呪縛から離れて「錦の糸」という表意、また「錦糸町(kinshichio)」という「i」音重複の表音からの感慨句とも取れる。「錦糸町」という言葉そのものが音となるのである。丈高く、声調が張り、作者の凛とした姿を垣間見るよう。無論、読みはどれか一つに限るわけでなく、私たちの脳はこれらを重層的に受け止めることが可能である。これが詩歌を楽しむために、神が人に与えた機能なのかもしれない。

 さらに分け入ろうとすれば、「涼しい」とした作者の心象、音を「放つ」主体と音の内容に進む。ここから先は読む側の想像に託されることとなり、読み手の「楽しみ方」にも大きく依存する。「涼しい」という季語、主体の意志を感じさせる「放つ」という言葉、いわば外枠線だけを作者はぽんと提供しているのだが、読み手にとっては、この線に沿って色を塗らなければ始まらない。

 筆者の読みは次のとおり。ある者(または作者)が南口側の雑踏の中に蹲り、大友克洋『AKIRA』のように、両手で小動物を包み隠すごとく何かを覆っていたが、その掌を少しづつ開け始める。すると、摩訶不思議な音が、パチンコ店の流行歌や風俗店の呼込む声、右翼の街頭宣伝などにかき消されながらも、円形に広がっていく。その広がりとは、観察者が音を認識したのではなく、何かに高揚する子供たち、はっとしたような表情の老夫婦、音の有りかを探ろうと周辺を見渡すキャバクラ嬢などの姿を通して、視覚的に捉えられる。神経を研ぎ澄まして微かに聞こえる音は、阿弥陀如来来迎の際に、雲中供養音薩が奏でるとされる音楽に似て、華やかとしながらも、現代音楽に慣れ親しむ者からすれば、抑揚のない単純なもの。そして、この音を放った者こそ、日常に非日常を持ち込み、空虚な心に魂をもたらす者、即ち都市に棲む「マレビト」であった。

 ・・・といった具合。『AKIRA読み』とでも言うべきか。派手なストーリー仕立ては筆者の性分であり、ご容赦いただきたい。俳人の素質にそぐわぬものかも知れぬが、これとて明白な論拠はない。