2015年10月23日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 4】  「この世」の身体によって  『花修』覚書   岡村知昭


 
 夏のはじまる前に届いたこの一冊を、秋の真っただ中で読み返しながら、ある一句からもたらされる手ごたえの拠って立つところはいったい何なのか、この一冊がもたらそうとする「手ごたえ」はどこへ読み手を連れていこうとしているのかを、しきりに考えさせられてしまうのであった。もちろん読んだあとに「つかみとった」と感じとった「手ごたえ」のありようはいくらでも存在して、そのたびに言葉を尽くそうとするのに、かえって言葉を選びだせずじまいとなってしまう。そんな鑑賞という行為の苦心の繰り返しから、『花修』に収められた作品たちがもたらしてくれた「手ごたえ」として、まずはっきりとしているのは、作品中に登場する「もの」たちそのものが持ち合わせている質感の確かさ、いわゆる「物に託す」からもたらされる(と思われている)像や抒情からはどこかはみ出しているように思えてしまう、そんな「物」たちの姿である。

 いつまでも牛乳瓶や秋の風

 この一句を読んだときに浮かび上がってきたのは、牛乳瓶を形作っているガラスの分厚さであり、曲線と直線を併せ持った瓶そのものの形なのであった。この一句と出会う前に、牛乳瓶をモチーフとしたほかの方の作品は見かける機会が多かったのだが、これまでの「牛乳瓶」の作例を見てみると、空っぽになった牛乳瓶に季節の花を挿そうとしているものが目立っていたように思われる(わたしも試みたことがあるのもので)。しかし、この一句における牛乳瓶は「いつまでも」あくまでも、徹底して「牛乳瓶」であり「牛乳瓶」以外の何ものでもない。分厚いガラスによって形づくられたびんそのものの質感は秋風をかき分けながら、読み手へ向かって押し寄せてくる。そこにはかつてよく見かけていたのに、今ではなかなか見ることができなくなっている「牛乳瓶」へのノスタルジーも含まれているかもしれない。だが、そんなノスタルジーすらも、この一句の「牛乳瓶」はたちまち跳ね返してしまい、さらに己が質感をはっきりと示してやまないのである。

 殺されて横たわりたる冷蔵庫

 この一句における「冷蔵庫」の質感も、普段の冷蔵庫のそれとは大きく異なっているように感じられる。「殺されて横たわ」っている冷蔵庫ということは、すでに本来の役割を果たしていないだけでなく、これから解体され、捨てられることがあらかじめ定められている、つまり殺されるだけでなく、これまでの働き、これまでの存在を徹底的に存在しなかったことにされてしまうのだ。

 だが、死体同然の見立てられ方をされてしまった冷蔵庫は、それがゆえに物としての質感を増し、さらなる重みを手に入れている。まるで電気が通わなくなってしまったことによって、新たな命を吹き込まれたかのようだ。「殺されて」は自分自身のことではないか、との読みも可能なのだが、そのときも冷蔵庫は「殺されて」しまた自分自身の目に、これまでにない、恐るべき質感を持って立ち現われてしまっている。それはそうだろう、なにしろ冷蔵庫は生きているのに、自分は生きていないのだ。

 玉虫や思想のふちを這いまわり 
 暴力の直後の柿を喰いけり

 玉虫と思想、柿と暴力、どちらも一見したところ物が概念に押しつぶされてしまいかねない危惧を抱かせてしまう取り合わせなのにも関わらず、玉虫は「思想」に対し、柿は「暴力」に対し、そのくっきりとした質感を持って拮抗し、むしろ押し返してしまっているかのような印象を与えている。

人によって生み出されたにもかかわらず、逆に数多くの人の命を呑みこんだり、操ったり、そしてさまざまに装いを変えながら、なおも飽きもせずにさまざまな意味での支配の道具となってしまっている「思想」の数々の うつろさ、いかがわしさ。そのような人の営みのまわりをただ這いまわることのみで痛烈な一撃を与える玉虫たちこそが、真に「思想」を行っている存在であるのかもしれない、との恐れは、玉虫たちの蠢きのまぶしさがくっきりしているからこそである。

一方、圧倒的な「暴力」にさらされていくつもの傷を負っているのであろう柿。季節の営みによるものか、それとも人の手によるものなのかは、ついにわからないままに木の枝からもぎ取られ、これから人によって喰われるという、さらなる「暴力」にさらされている柿。しかし、終わることのない危機、逃れられない絶望が、柿の質感にさらなる深みを与え、たくましさと眩しさとを兼ね備えた存在への変身を可能なものにした。この柿はどこまでもこの世において「柿」でありつづけるのである。

ここまで一句の中でモノがもたらしている質感を軸に見直してきて、『花修』のハイライトのひとつとなっている、震災と原発事故を背景とした作品群への賛否が分かれる理由がようやく見えてきたように思われた。

薄明とセシウムを負い露草よ 
桐一葉ここにもマイクロシーベルト 
山鳩として濡れている放射能

 
 「薄明とセシウム」を背負わされてしまった露草は、露草であり続ける危機を背負い続けなくてはならない、つまり露草はすでに敗れてしまっているのだ。「桐一葉」も「マイクロシーベルト」という単位の前にひれ伏さなければならない、なぜならこの桐の葉に注がれる視線は大きく変わってしまったから。雨に濡れた山鳩は合わせて「放射能」をもその身にまとってしまい、山鳩が放射能を浴びたのか、それとも放射能が山鳩に取り憑いてしまったのか、との好奇のまなざしにさらされたまま、立ち尽くしているかのように濡れ続けなければならない。だがこのとき、真に質感を発揮しているのは、露草なのかセシウムなのか、山鳩なのか放射能なのか、その疑問に対する答えが鮮明に立ち現われない印象がどうしても残ってしまう。

これらの作品たちにおいて、もともと質感がより露わとなって読み手に迫ってこなければならないのは「セシウム」「マイクロシーベルト」「放射能」といった、まぎれもなく人々と世界に危機を及ぼしている物たちであるはずなのだ。しかし、「セシウム」も「放射能」も確かに抽象ではないが、確かに目に見える形を持ってはいない。その上、一気に押し寄せてきたこれらの語彙を、なんとか受け止めようとする作業の困難さはいまもなお計りしれない。そのため一句の中で取り合わせる作業がくっきりと行われにくくなってしまい、一句の中における物の質感を高めるまでの効果がもたらされているかについて、読み手に一句そのものの質感に対する疑問を抱かせてしまう結果へと、つながっているのではないだろうか。以下のような、物たちが充実した質感を持っていることによって成立している作品が揃っているだけに、懸命さが及ばなかったと思われる点が、より目立ってしまったのはいたしかたないのではあるのだが。

木枯の何処まで行くも機関車なり
白菜に包まれてある虚空かな
死に真似の上手な柱時計かな
停電を免れている夏蜜柑
木枯に従っている手や足ら
威銃なりし煙を吐き尽し
葱刻むところどころの薄明り
ところてん人語は毀れはじめけり

 そして読み手は考えさせられるのである。豊かな質感を与えられている『花修』の「物」たちは、いったい何を語りだそうとしているのか、いやほんとうは語ろうとなどしていないのではないのか、と。

 滝おちてこの世のものとなりにけり

 「この世のもの」などともったいぶった書き方は、普段のこの作者ならまず選ぶことなどないはずの代物のはずだ。しかし「落ちて」でなく「おちて」を選んだのと合わせて、この危うい「この世のもの」との把握を選び取った。いま滝から落ちてきた水も、滝を見ている自分も、神秘でもなく、驚異でもなく、悟りや諦念といったいくらでも付け加えることのできそうな意味付けなどを乗り越えて、「滝から水は落ち、私はここに立っていて、すべて「この世」のことである。そのようにつかみとったとき、滝の水はひたすらに水として、「この世」にむかってまっすぐに落ちてくる。滝から落ちてくる水の質感の豊かさはいうまでもないのだが、その豊かさによって「この世のもの」との書き方がもたらそうとする饒舌を、なんとか食い止め、そこから滝を見る私の質感へ広がりを見せようとする。その先にあるのは「この世」そのものが持つ質感をより確かなものとしようとする試みとなるのだろう。

 祈りとは折れるに任せたる葦か

 「人は考える葦である」というよく知られた箴言を踏まえながらも、この一句で見出そうとしているのは人がなにものかに「祈る」ときの姿勢のもろさ、危うさそのものなのである。両手を合わせたり、あるいは組んだり、ひざまづいたり、座ったり、頭を下げたり、とさまざまな姿勢をとる人々を見守りながら、そのときの身体の「折れ」を見逃さないのは、敬虔な祈りの裏側にもしかしたら「祈り」によって「考える」ことを見失ってしまっているのかも、との疑いから、どうしても逃れられなくなってしまったからだ。だからといって「祈り」という行為へと人々を突き動かす弱さを、責め立てようとするのでは決してない。「折れる」ばかりなのは、いまこのときの自分自身の姿であるかもしれないのだ。だがいかなる「祈り」も現世を乗り越えることはできない。それを承知で身体を折り曲げ、祈り続ける美しさに、「この世」そのものが持つ豊かな質感を見出そうとしているのだ。もちろんそれは、当然のことなのだ、『花修』は作品によって何かを語りだそうとする以前に、「この世」が持つ豊かな質感の数々に突き動かされながら、書き継がれてきた句集であるのだから。
 



【執筆者紹介】

  • 岡村知昭(おかむら・ともあき)

1973年生まれ。「豈」「狼」「蛮」所属、現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(邑書林)