2015年11月27日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 13】  震災詠は苦手だった   大池莉奈




第18回俳句甲子園大阪大会が、曾根氏と言葉を交わした最初のときであった。
審査員である曾根氏は、OGスタッフであるわたしにも気さくに話しかけてくださった。さらに大会直後に、担当した行司(司会進行)業務等のことを褒めていただいた。なんて優しい方だろうとわたしは感銘を受けた。その曾根氏から直接いただいた『花修』である。句集名や氏の人柄を象徴するかのように、装丁には、花や草木が囲む道が描かれていて、どのような俳句に触れられるのか楽しみであった。

しかし、わたしはページを捲ってすぐに衝撃を受けることとなった。

この句集は、第4回芝不器男俳句新人賞受賞の副賞として上梓された。東日本大震災について真っ向から読んだことが最も注視されたといっても過言ではないだろう。

震災詠、つまり震災を詠んだ俳句は、ときにそれだけで心が揺さぶられる。曾根毅氏一個人の作品である前に、震災の詠んだ文芸作品であることがどうしても目立ってしまう。神戸の阪神淡路大震災や新潟中越地震、最近では各地で火山噴火も起きている。もちろん地震だけではない。かつて、日本は戦争を経験した。広島や長崎には原爆が落とされ、沖縄では日本で唯一地上戦が行われた。また、東京を始め各地で大空襲が起きた。詠むだけでおのずと力をもってしまう地域事情は確かにある。そのような句を感情に流されず、また背景を一旦置いておいて、俳句として正面から向き合うことがどれだけできているか。自戒を大いに込めて、警笛を鳴らしたい。

しかし句集の冒頭には、曾根氏の本質を垣間見られるような、俳句が並ぶ。

永き日のイエスが通る坂の町  
滝おちてこの世のものとなりにけり 
冬めくや世界は行進して過ぎる 
快楽以後紙のコップと死が残り
曾根氏はものごとを「常識」に沿って真っすぐは見ようとはしない。普段見慣れているものでも新たな一面があるのではないかと探す。いつもと同じ坂道も、今日はイエス・キリストが通ったことがあるかのように感じる。滝は落ちて初めて姿を現す。クリスマスやお正月と浮き立つ初冬は目まぐるしく過ぎていく。まるで世界が行進しているかのように。「快楽」の後に残るものが、死だけならまだ美しいのに、紙コップとなると妙に生々しく、日常と切り離すことができない。
日常句などと安易な言い方は実に失礼であった。そもそも日常句とは何かと真意を問われているような気にもなる。


阿の吽の口を見ている終戦日 
敗戦日千年杉の夕焼けて
同じことが起きた日であっても季語によって意味は異なる。

前者は疲れ果てて呆然とする人々の姿をありありと描き、後者は荒地に一本だけ残った千年杉を前に、やっと終わった戦争に安堵する。

曾根氏は戦後生まれであるが、どちらもまるでその現場にいたかのようにリアリティがある。季語の力を確認するかのような二句。ぜひ季語研究の教材にしたい。

さらに、

くちびるを花びらとする溺死かな 
墓標より乾きはじめて夜の秋 
冬銀河本日解剖調査拒否 
憲法と並んでおりし蝸牛
「溺死」「墓標」「解剖」「憲法」。印象的でアンダーグラウンドな言葉を果敢に使っておきながら、曾根氏の句はどこか寂しげである。

そして件の震災詠である。
塩水に余りし汗と放射能 
放射状の入り江に満ちしセシウムか 
原子炉の傍に反りだし淡竹の子
直接的なのはこれまで挙げてきた句と変わらない。しかし使われている語は、震災以後やっとメディアで使われ始めた専門用語である。

草いきれ鍵をなくした少年に
「塩水に余りし汗と放射能」の3句後にあるこの句、少年がなくしたのは鍵だけか。「少年に」で終わる余韻から、鍵以外になにか大きなものをなくしたのではないかと読者は想像力を働かせる。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト
曾根氏は出張先の仙台で震災に揉まれた被災者である。

震災直後は、資源的にも体力的にも精神的にも、俳句どころではなかったことは容易に想像できる。しかし、それでも氏は詠んだのだ。未曾有だとか非現実的だとか、被災地以外が悲観的になって「自粛モード」に陥っているときに、この日常の中に起きた非日常を忘れはしないよと俳句作品にした。「桐一葉」の句は、桐という、見上げて探さなくてはいけない小高い木の葉が、落ちてゆく様にこの葉にも放射線が飛んでいるのか、と気づく。なんて力強い句なのか。震災詠とひとまとめに区別するのは、実に愚直であった。



【執筆者紹介】

  • 大池莉奈(おおいけ・りな)


1995年生まれ。別俳号:柚子子(ゆずこ)。関西俳句会「ふらここ」所属。現在、立命館大学文学部2回生。