2015年11月20日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 12】 花は笑う  / 丑丸敬史



曾根毅は筆者が所属する同人誌LOTUSの若手のホープであり、その縁もあり今回筆を執らせていただく機会を得た(ちなみに筆者の方が遅れて入会)。

今回は、曾根の「怪作」を採上げる。

 春すでに百済観音垂れさがり

句集一の怪作である。鑑賞者は「観音」ときて、「垂れさがり」とくれば、観音様の纏うお召し物を想起する。それを観音自体が垂れ下がり、と来た。この諧謔が楽しい。更に言えば、「春すでに」の措辞は、早春ではなく、仲春、もしくは晩春を感じる。枝垂梅、枝垂桜、枝垂桃、春を彩る枝垂何々はたくさんあろうが、やはり、何と言っても枝垂桜だろう。つまり、「百済観音垂れさがり」と言った瞬間、枝垂桜がダブルイメージとして脳裏に浮かぶ。勿論、これは作者も計算済みである。

しかし、観音が垂れさがりと言った際のイメージが春爛漫の好ましいイメージというよりは、腐った魚の肉がぶら下がっているようなおぞましいイメージを想起させる。また、人間になぞらえてみると、肉が垂れ下がった広島・長崎の被爆者の写真をイメージしてしまう力強さがある。「垂れ下がる」という言葉自身が美しい言葉ではなく、元来マイナスイメージを喚起する言葉であることに由来しよう。この句は、プラスとマイナスのイメージの双方を同時に少ない言葉で想起させるという仕掛けを持っている。

観音様と言えば慈悲、慈悲と言えば観音様というくらいだ。民間信仰として絶大な人気を誇る仏教界のトップスターである。その観音様が慈悲の御手を差し伸べながら、自身が垂れ下がっているというシュールさ。というよりは、救済者自身がずり落ちそうになっている。これではとても御手を摑めたとしても一緒に落ちてゆきそうだ。

そして「百済観音」という固有名詞をもってきたところにこの俳句の更なる手柄がある。百済観音は左手を「垂らして」水瓶を優雅に持つ。この手の形から変奏されてできた俳句かもしれないと思わせる。作られた経緯はともかく、この俳句が奏でているシュールな風景に滑稽さを感じさせるのは、この俳句の手柄である。<物干しに美しき知事垂れてをり>の攝津幸彦の俳句を想起させる。この攝津句もシュールであり滑稽であるが、攝津幸彦は、加藤郁乎が創始した(?)ナンセンス俳句の名手であり、本句も明瞭な像を結ばない、結ばせないところに滑稽を目指している。一方、曾根は正当な諧謔俳句の後継者である(笑)。

 しばらくは仏に近き葱の花

葱の花に仏性をみた。葱の花の別名が「葱坊主」と種明かしをしてしまうと、理に落ちてしまう句にも見えようが、もしこの句の結縁がそこにあったとしても(多分ないと思うのであるが)、葱坊主を上にいただく葱(これは、細々とした奴葱などではなく、立派な白葱でなくてはならない)の立ち姿に仏性を見た曾根の眼力は鋭く、正しい。

実家のある群馬は葱の産地であり、高級葱の下仁田葱もある。実家の家庭菜園では下仁田葱こそ育てていないが、立派な白葱が常に生えている。葱の花は小さい頃からの良く見ていたが、愛嬌のあるその面白い形が印象的である。葱の花にはそのような諧謔味がある。それを踏まえて、仏を見るところが俳句である。

今回は曾根毅諧謔味のある怪作を鑑賞した。俳諧味がある俳句にこそ、曾根毅の力量を確かに認めることができる。曾根が今後どのように大化けしてゆくのか、今後の更なる怪作を待望する。


【執筆者略歴】

  • 丑丸敬史(うしまる・たかし)

「LOTUS」同人、「豈」同人。句集『BALSE』