2015年11月13日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 9】 つぶやき、あるいは囁き   /  安岡麻佑



この句集を読み終えたとき私の心の中には余韻のように静かな言葉だけが残った。曾根毅『花修』に収められた言葉たちからは大袈裟な感傷やエゴイズムなどは感じられない。そこには無駄な言葉はない。あるのは、ただ何気なくつぶやかれた言葉だ。しかし、そこには驚くほどの奥行きと饒舌な沈黙がある。彼の句を鑑賞していると突如一人、広い広い無辺の世界に、しかし、その言葉とともに放り出され一人と一句として見つめ合い、そのものの在り方だけを見据えることになる。
 
かたまりし造花のあたり春の闇 
葉桜に繋がっている喉仏

それぞれ無機質な造花に艶めかしく生暖かい春の闇がこごっているという不思議とも不気味と言える存在感、葉桜と喉仏の同化あるいは反発ともとれる両者の動きを感じさせる句である。読者はそれぞれの花の魅力に直線的に引き込まれる。

また、「花修」を私が秀逸と感じ入ったのは特に以下に挙げる句で一般的には不快ともとれるような表現で詠むことでむしろ混沌とした季節への複雑な愛情を感じ取ることができる点にある。

獣肉の折り重なりし暑さかな 
家族より溢れだしたる青みどろ

写生か空想かというところで別れる二句ではあるが、「暑さ」「青みどろ」という一種の不快の感じられる季語であるにもかかわらず、嫌悪や不快というよりも読者である私はこの詩句に魅入り、生命の営為というものの醜さと崇高さに心を打たれるのだ。

五月雨や頭ひとつを持ち歩き 
夏風や波の間に間の子供たち 
髪濡らしつつ遠火事を見ておりぬ 
木枯に従っている手や足ら 
或る夜は骨に躓き夏の蝶

そして面白いことに「花修」の中では肉体や生命、魂を美しく囁くとともに、それらを客体として自分から切り離し突き放すような言葉も見られるのであった。先ほどとは打って変わってまるで他人事のように「人間」である自分やその他の事物を淡々と見据える視線。この葛藤はどんな人の心の中にもあるのではないだろうか。

繋ぎ止められたるものや初明り

「私」はいったいどこに繋ぎ止められているのか、それとも何を繋ぎ止めているのだろうか。あそこにある光は誰のものなのだろうか。『花修』は現代社会を生きている私たちにとって最も遠くて最も近い疑問をささやくように問いかけてくるのだ。



【執筆者紹介】


  • 安岡 麻佑(やすおか・まゆ)

 関西俳句会「ふらここ」所属