2015年12月18日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 20 】 きれいにおそろしい / 堀田季何



曾根毅の第一句集『花修』を読み、原発事故や戦争といった現代社会の負の側面を詠む仲間がまだいることに強く勇気づけられた。

そういった素材の面でも曾根毅はその師である鈴木六林男を継いでいると云える。六林男の句のような生々しさ、不気味さ、迫力にやや欠ける分、もう少し言葉寄り、観念寄りである毅の句はかわりに「きれいさび的な怖ろしさ」という魅力を獲得している。毅の句はひたすらに美しく、エロやグロといった類とは無縁である。しかしながら、言葉と観念の操作が真骨頂に達した時、毅の句は禍々しくかがやき、六林男の句にも太刀打ちできる域に達する。

そういう意味で、集中、特に言葉が重層的に作用する句に惹かれた。

鶴二百三百五百戦争へ

数字の増加は、「ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に」(高濱虚子)、「牡丹百二百三百門一つ」(阿波野青畝)、「筍や雨粒ひとつふたつ百」(藤田湘子)といった先行句があるので、用法が確立されたレトリックの一つとして使っていると思われる。実際、この句で注目すべきは数字の増加でなく「鶴」の多義性である。

桃の花までの逆立ち歩きかな

「桃の花」からユートピア的な桃花源(桃源郷)や西王母の桃園を連想した。いずれも不老不死かつ平和の象徴である。そこまでの逆立ち歩き、一向に到達しそうもない、いや、到達できずに死ぬであろう。それでも逆立ち歩きを続けて理想郷を目指すのだ。

玉虫や思想のふちを這いまわり

思想という形而上のものに、玉虫が這いまわるふちという形而下の属性を持たせ、思想そのものを形而下に引きずりおろしているのか、それとも、玉虫を形而上のものに昇格させているのか。「玉虫」「這いまわり」の象徴性が効いている。

影と鴉一つになりて遊びおり

「寒鴉己が影の上におりたちぬ」(芝不器男)の本歌取りだと思われる。降り立ったのち、鴉が地上を歩き回ったり跳ねたりしながら、その鴉につかず離れずの影と一体化しているように遊ぶ、という解釈が常識的であろう。しかし、個人的には、己が影の上におりたった鴉は、そのまま足から影に吸い込まれ、やがて一体化し、遊びはじめ……といった解釈の方に惹かれる。いずれにせよ、不器男句と違って、毅句では「鴉」や「影」が象徴性を帯びている。

佛より殺意の消えし木の芽風

「佛より/殺意の消えし木の芽風」という解釈も可能だが、「佛より殺意の消えし/木の芽風」という解釈で読んだ。佛(仏)より殺意が消えた、ということは佛に殺意があったということ。衆生を救うべき佛に殺意があるという発想には一読驚くが、佛の存在理由を改めて考えてみるとこの発想は意外にも腑に落ちる。「木の芽風」も意味的にリンクしていて効いている。

手に残る二十世紀の冷たさよ

梨の銘柄と前世紀の時代を掛けている、洒落た言葉遊びの句。もちろん、内容は深刻であり、「手に残る」「冷たさ」が少し前に終わった二十世紀に少しでも生きていた実感を総評している。二十二世紀に別の俳人が二十一世紀を形容した場合、同じような実感になるのだろうか。

ロゴスから零れ落ちたる柿の種

形而下の柿の種は、言葉(ロゴス)を発した口から零れ落ちたのであろう。形而上の柿の種は、その言葉(ロゴス)からそのまま零れ落ちたのであろう。柿の種とはどういった性質のものであろうかと考えながら、聖書の「創世記」及び「ヨハネによる福音書」の第1章を読んでみると慄然とする。

春すでに百済観音垂れさがり

丑丸敬史が「花は笑う」という文章で提示した解釈にほぼ賛同する。加えて、「春すでに/百済観音垂れさがり」と読むのが普通であるが、「春/すでに百済観音垂れさがり」と読むと更に不気味である。

鶏頭を突き抜けてくる電波たち

われわれの肉体を日々刻々と突き抜けていく億兆の携帯端末メッセージ等の電波を考えると、なかなかおぞましい。肉体のあらゆる部分を痴話喧嘩の会話や殺人予告のメールが貫通していっているのだ。自分で通話したりする場合など、電波は頭を直撃している。それだけでなく、(ゲーム機器、テレビ、パソコンを含む)電波を発する機器の普及、蔓延により、多くの国民が思考力を奪われている、という事実も想起される。掲句の「鶏頭」は花の名前でありながら、鶏並みの脳を持った愚民の頭でもあり、鶏頭の花のような血の色に染まった国や組織の頭領(ヘッド)でもあろう。

祈りとは折れるに任せたる葦か

「祈」と「折」という字の類似に着目した句。右側の旁が「斧旁」であるところも効果的。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」(飯田蛇笏)といった句やパスカルが『パンセ』で述べた「人間は考える葦である」(正確な訳は「人間は一茎の葦にすぎず、自然界で最も弱きものでありながら、それは考える葦である」といったものであるらしい)という箴言、聖書「イザヤ書」第42章に出てくる「傷ついた葦を折ることなく」等を下敷きとして句を読むと味わい深い。信仰や救済についても考えさせられる。


【執筆者紹介】

  • 堀田季何(ほった・きか)

「澤」「短歌」各同人。歌集『惑亂』