2016年1月1日金曜日

 【曾根毅『花修』を読む 23 】 永久らしさ / 佐藤文香



  いつまでも牛乳瓶や秋の風

 そこに白い液体が入っているあいだは、液体の白を透かすそれも含めて牛乳と呼ばれていたのだが、私が液体の方を飲み終えると、それは牛乳全体のうちの一部ではなく牛乳瓶として独立し、返却してリサイクルなどされない限り、つまりはここにある限り、いつまでも牛乳瓶と呼ばれ牛乳瓶であり続ける。

 秋風がゆくとき、瓶には口があるので、それに触れてゆく。すでに疲労したガラスに少し入り込みがちな牛乳の動物的な匂いがあるとすれば、風はそれを巻き込んでゆくだろう。


  水吸うて水の上なる桜かな

 桜の花を単に桜と呼ぶとき、まだ枝のなかの維管束が花弁に対して機能している状態を思う。花びらや花といわれるとーーそれはある種俳句的な表現というだけであるかもしれないがーーたとえば夜空の星に対する星型のモニュメントのような、花という印象にまみれたものように感じるから、この句で「花」でなく「桜」なのは、まだ今から水に生かされたり殺されたりする可能性のあるものを描いた、ということではあるまいか。

 古木の枝が湖の水面を這うように伸び、花の一部が水に浸かり、しかし水の上に咲き続ける花、花はだから桜。


  凍蝶の眠りのなかの硬さかな


 冬まで生きている蝶の、眠りというのだから死ではない、生きてどこかに留まり凍える様子である。その眠りのなかに硬さがあるという。眠り全体が硬いのではなく、どこかに硬さがある。
 眠りとは、眠っている蝶の心の置きどころだとして、そもそも眠る蝶に心があるのか、という問いは立てないことにして、ならば蝶は、夢を見る。

 思うに凍蝶が見る夢とは、凍蝶の過去に由来するものだ。この蝶は、卵から生まれ青虫になり、脱皮を繰り返し蛹になり、羽化して蝶のからだつきを得、夏を経て仲間は死に、冬を迎えた。その一生で出会った硬さの思い出、要は橘の葉であるとか、アスファルトの道であるとかが、蝶の夢の内の一部を占める。それが「眠りのなかの硬さ」であると思う。

 しかしそんな具体的な何かではなくただ「眠りのなかの硬さ」なのだ、とも思う。

  初鏡一本の松深くあり
  神官の手で朝顔を咲かせけり
  能面は落葉にまみれ易きかな


 曾根毅の作品は水墨画のようだ。永久に存在し続けるのが自然であるかのような顔をしている。よって、過去も未来も変わらないだろう素材が選ばれたときに、生きる、残るものが生まれる。


【執筆者紹介】

  • 佐藤文香(さとう・あやか)

1985年兵庫県生まれ。池田澄子に師事。「里」「鏡」「クプラス」に参加。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』、詩集『新しい音楽をおしえて』、共著『新撰21』。3月に『俳句を遊べ!』(小学館)刊行予定。