2016年1月15日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 27 】  贈られた花束 / 若狭昭宏



追突車十四五台や年の暮

「や」で切ることによって、ただ飲酒運転で事故をした、などという見方ではなく、ある一点を起点とした事象の「残る」ものや過去のものまで想像させることができるのである。

 12月31日、大晦日。「あの1月」に近づく感覚に背を押されながらこの記事を書いている。
 日本の1年には春夏秋冬+新年等の季感が存在するが、そこに生きていると、瞬間的に、また定期的に、時には強く蔓延する無季の乱暴な力が存在する。その存在を目の当たりにすると、俳人は豊かな季節感を体感できなくなるが、いてもたってもいられなくなって、無季感を形に残すことがある。それが戦争俳句であったり、震災俳句であったりする。

夕ぐれの死人の口を濡らしけり 
体温や濡れて真黒き砂となり 
馬の目が濡れて灯りの向こうから 
放射状の入り江に満ちしセシウムか 
快楽以後紙のコップと死が残り 
この国や鬱のかたちの耳飾り

「濡れる」「残る」「鬱」などの言葉が句集に散らばり、想像が方向づけられる。


 この句集を震災句集のカテゴリのみに分類してしまうのはいささか勿体無いことではある。が、これは紛れもなく東日本大震災の句集である。季節に並行して存在する震災の時間で編み上げられている。だから、季語が無い、季語があっても季感が無い、更には季語があってすら季感が無い、それでいても季節と結びつけられ完成している句集と言えよう。わざわざ分かりにくく書く事もないので、まとめると一般の時間軸とは別に震災を起点とする時間軸があり、一般の季感が無いなら無いで震災の起点に向かって想像力が働くのである。

猫の死が黄色点滅信号へ 
片頭痛トランペットの横たわり 
殺されて横たわりたる冷蔵庫 
布団より放射性物質眺めおり 
月明や昨日掘りたる穴の数 
形ある物のはじめの月明り 
塩水に余りし汗と放射能

 花修という世界に触れていくと、徐々に震災句として読み解きたいものと、そうでないものが出てくる。

引越しのたびに広がる砂丘かな

 仮設住宅へ入ることや、他県で支援を受けるための移住。また今後引越しの度に繰り返し感じるであろうざらついた心情が、実際に震災を経験していない者にもじわりと広がってくる。年度変わりに設定するなら季感は生まれるが、それでは住まいに砂丘までもが広がっているようには感じにくいだろう。

五月雨のコインロッカーより鈍器

 俳句の中に鈍器などという言葉はそう出てこない。一見猟奇的な何かかとさえ思わせるが、防災の視点から考えると地域の要所要所にバールやジャッキ、ハンマーなどを設置して、いざという時には自他を助けられるようにするのが望ましい。五月雨という水に関する季語によって、かろうじて震災と結びつけることができる。

停電を免れている夏蜜柑

 夜間の蜜柑山に拳一つ二つ分の夏蜜柑がポツポツと熟れている。月明かりに照らされているのか、その一つ一つが電球のように光をおびている。なるほどという見立てで詠まれた句だと思う。これも何故「夏」蜜柑なのかというところで、「春」に起こったことを想起させるだろう。

獣肉の折り重なりし暑さかな

 かなり前に、猛禽類が死肉を啄む景の句に衝撃を受けたことがあるが、この句にもそれに近いものを感じた。ただこれが災害や戦争による死と合わされた句であるとすると重すぎる。暑さという季語を引き立たせるための、むせ返るような獣の匂いであるというように解釈したい。

 曾根毅という人は、関西で聞くと「実力がありつつも、中々世間に評価されてこなかった。しかし、必ず花開くだろう」と言われ続けていた人だ。そして、花開き、続く後輩たちに惜しみなくエールを送ってくれる人である。季感というテーマは常に俳人の課題である。花修にも、震災を感じない、一般的な四季を感じる句はあるが、ここまで無季俳句が多い句集はそう多くない。「有季定型文語文の、俳句らしい俳句に、若々しい感性を乗せて」闘ってきた「俳句甲子園世代」と呼ばれる若手俳人達は、どのようにこの句集を味わうのだろう。是非一度この花修を読み、仲間たちとあれでもないこれでもないと議論を楽しんでほしい。


【執筆者紹介】

  • 若狭昭宏(わかさ・あきひろ)

1985年広島生まれ。「狩」所属。俳句甲子園OBOG会副会長。mhmまつやま俳句でまちづくりの会代表。双星句会運営。共著「関西俳句なう」「WHAT」