2016年2月12日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 36 】 虚の中にこそ  / キム・チャンヒ  

 

俳句は、五七五の韻律(と場合によっては季語)を使って読者の脳に真理を立ち上がらせる文芸。だとすれば、その真理は現実である必要は無い。

立ち上がるときの悲しき巨人かな  

巨人が何を意味しているのかは、正確には分からない。しかし、巨人で在るということ自体が悲しみなのではないか。謎かけをするように読者を真理へ誘う句からはじまる。

鶴二百三百五百戦争へ  

僕たちは鶴というものを誤解していたのかも知れない。この不気味さ。世界中で戦争はずっと続いていることを思い起こす。

地に落ちてより艶めける八重桜
初夏の海に身体を還しけり
獣肉の折り重なりし暑さかな  

写実の中に微かな誇張を与えられた句群は、新たなるリアルさをもって読者に訴えかけてくる。そんな虚と実の境を、作者は楽しんでいるかのように思える。  

しかし、2011年3月11日、あの震災が起こってしまう。

我が死後も掛かりしままの冬帽子
大寒の残骸として飼育室
霾るや墓の頭を見尽して 

「花」と「光」の章までは、この句集がなぜ編年体でなければならないかが、よく分からなかった。しかし震災を前に、詠まざるを得なかった句群に対し、それらを別の時間軸で再構成することなど、不可能なことだと気づいた。  
残された冬帽子も飼育室も墓も、震災とは言わずとも、一つの詩としてそこにある。

蠟のような耳に触れたる冬帽子
少女また羽蟻のように濡れており
萍や死者の耳から遠ざかり
棒のような噴水を見て一日老ゆ
原発の湾に真向い卵飲む  

それらは現実だろうか、それとも……。
震災後の句群は、執拗に現実を捉え、その先に詩を忍ばせる技が美しい。  
その詩の持つ真理を読み解くために、読者はまたページを開く。


【執筆者略歴】

  • キム・チャンヒ(きむ・ちゃんひ)

1968年生まれ、愛媛県出身
ハイクライフマガジン『100年俳句計画』編集長
「俳句対局」発案者