2016年2月19日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 37 】   絶景の絶景 /  黒岩徳将




墓標より乾きはじめて夜の秋

夜に墓標にいるというのだからおどろおどろしいが、周りの空気は乾いている。
曲者なのは「より」で、作者の立ち位置は墓の前なのか、既に墓を去っているのかは明確でない。その代わり、空気のゆらぎのようなものが涼しさのなか際立っている。

読者がストンと腑に落ちさせてくれない、それが、私の「花修」を一読した感想であった。解が出ないことに、句が頭の中で回り続ける。しかし、ただ「謎」だとか、「ヘンな俳句」と言うならば自分でも作ることがあるし、曾根俳句を語ったことにはならないだろう。

玉虫や思想のふちを這いまわり 
暴力の直後の柿を喰いけり 
玉葱や出棺のごと輝いて 
憲法と並んでおりし蝸牛 
地球より硬くなりたき団子虫 
音のなき絶景であれ冬青草
断崖や批評のごとく雪が降り

ざっと通して読むだけでも、抽象的な熟語の多用が見受けられる、意図してやっているか、手癖かのどちらかである。特に「絶景」は俳句においては描写の努力から逃げている、という指摘が考えられる。写生によって立ち上がってくる質感がビビッドではない、とも言えるだろう。しかし、この指摘は掲句には適切ではないと筆者は考える。目指す方向性は描写ではなく、もっとつかみ所のない世界ではないか。

「思想」や「暴力」、「絶景」という言葉が俳句形式において提示されるとき、それらがもたらす効果は、「そもそも『思想』『暴力』『絶景』とは私たちにとってどういう存在なのだろう?」と読者に立ち止まらせるというものである。たとえ、小学生が欲しがった玩具を手に入れることができなかった腹いせに兄弟や両親を殴ってしまうという幼稚で些細な動機であったとしても、『暴力』と書くことで、柿と柿を包む掌が禍々しく見える。主体は『暴力』が存在していた、と現象をとらえてしまうことで、次の行動が変わるはずだ。このような俳句は、四番バッターだと思う。細かなテクニックではなく、われわれの生活における現象をもやっとした言葉で再構成する。そうして提示された句に、私たちはどう向き合えば良いのかが試されているし、曾根氏に聞くのは野暮である。

鰯雲大きく長く遊びおり

集中では、〈鶴二百三百五百戦争へ〉のような生死を訴えかけるもの、〈薄明とセシウムを負い露草よ〉マイナスイメージの単語の強調が、明るいものよりも目立った。その中で、掲句は「遊びおり」が一見穏やかで優しい時間を示しているようにも見えたのだが、名詞「遊び」の持つ意味の「ゆとり」「暇」といった、意味も混ざっているのではと思い当たった。必ずしも能天気な俳句とは言えないかもしれない。さっと読めそうで、食えない俳句である。

結論を出さないからこそ、何度も読み続ける必要がある句集となるのではないか。筆者と「花修」との対話はまだ上り坂の途中である。



【執筆者略歴】

  • 黒岩徳将(くろいわ・とくまさ)

1990年神戸市生まれ。「いつき組」「現代俳句協会青年部」所属。
第五・六回石田波郷新人賞奨励賞。