2016年3月11日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 43 】 『花修』の植物と時間 / 瀬越悠矢



筆者は以前、『花修』について、約三分の一が〈植物〉の句によって占められていると指摘したことがある。またそこでは、対象となる存在の持続性とその存在自体に対する脅威との相補的な関係や、「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」が前三章と異なる様相を示す要因のひとつとしての滑稽味などについて述べた。(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/07/blog-post_19.html

ここでは『花修』における〈植物〉の句を具体的にいくつか取り上げることで、上述の点について確認してみたい。その際、前回は簡単にしか触れられなかった「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」に焦点を当てる(じっさい〈植物〉の句の半数以上が含まれるのは、この「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」である)。

まずは措辞の面から考えて持続性が明らかなものを、いくつか挙げてみよう。

白菜をゆでている間の襁褓かな  (蓮Ⅱ) 
白梅や頭の中で繰り返し  (蓮Ⅱ)   
鳥葬の傍らにあり蛇苺  (蓮Ⅱ) 

乳母車止め置きたる桜の根  (蓮Ⅱ)

いずれも季語と人為との取合せである。「ゆでている」「繰り返し」「傍らにあり」「止め置きたる」といった表現は、存在あるいは状態の持続性を示すものであり、そうしたければより簡潔に描くこともできただろう。しかしあえて時間にそった人間の営みを強調することで、傍らの植物の時間もともに引き延ばされ、季語はいっそう実在感を得ているように思われる。

上との対照を際立たせるため、次にあえて持続性が弱いものを選んでみよう。

徐に椿の殖ゆる手術台  (蓮Ⅱ) 

醒めてすぐ葦の長さを確かめる  (蓮Ⅱ)

季語と人為の取合せであるという点は共通しているが、季語以外で用いられる措辞が比較的限定的な時間を示唆するものとなっている。「徐に」「すぐ」といった表現によって時間およびそれにともなう場所が限定されることで、季語はむしろ瞬間的に鮮烈なイメージを与えるものとなる。

ただしこのとき、持続性が強調されていた場合とは異なって、季語の斡旋はより困難になるかも知れない。時間の幅を描かないぶん、景にふさわしい植物は何か(あるいは植物にふさわしい景は何か)という問いが、いっそう切実になる。掲句は抽象度の高い表現との取合せであり、こうした問いへの作者の応答が顕著な例と言えるだろう。

「蓮Ⅲ」からも持続性という観点からこれが明らかなものを、いくつか挙げる。

傾いている一人子や忍冬  (蓮Ⅲ) 

紫陽花や舌を震わせたるままに  (蓮Ⅲ)
  
老茄子思弁のごとく垂れてあり  (蓮Ⅲ) 

山猫の留守に落葉の降りつづく  (蓮Ⅲ)

「傾いている」「ままに」「垂れてあり」「降りつづく」といった表現は、やはり意図的に選ばれたと考えるのが妥当だろう。季語は時間の中に置かれることで、それ単独で置かれたとき以上に、確かな奥行きを得ている。そしてこうした傾向は「蓮Ⅱ」から「蓮Ⅲ」に至るにつれ、わずかながら増しているような印象を受ける。

念のため同様に、これとは反対の方向性を探るような句を取り出そう。

唐突に梅咲きはじむ二人かな(蓮Ⅲ) 

千手千眼一瞬にして紅葉山(蓮Ⅲ)

やはり「唐突に」「一瞬にして」という語句によって、時間は極小まで切り詰めされている。重要なのは、ここで時間というのがあくまでも主観的なものであり、宇宙的時間(客観的時間)ではないという点だろう。「唐突に」「一瞬にして」は日常的に用いられることばであり、とりわけ世界をそのように捉える主観に寄り添ったものである。

同じことは、ここに挙げた句のすべてについて言える。時間がその主観に即したかたちで述べられることで、ほとんど必然的に植物は主観とともに現前する。冒頭に挙げた記事のなかでは『花修』を「美しくも不気味な世界」と形容した。仮に句集に「不気味な」印象があるとすれば、それは植物の(世界の)存在とそれを時間において見つめる主観が不可避的に並在することで、それがあたかも主体と存在しかその場にないかのような感覚を読者が抱くからではないか。もちろん、その感覚が錯覚である可能性も十分に考えねばならない。

もとより読者の言語感覚によって時間の感じ方には差があり、すべての句を上述の二分法のもとに整理しようとすることには意味がないだろう。しかし『花修』に豊富な〈植物〉の句に時間を意識したものが散見されることは確かであり、それらに学ぶことは無駄ではないだろう。


【執筆者紹介】

  • 瀬越悠矢(せごし・ゆうや)

1988年兵庫県生まれ。関西俳句会「ふらここ」所属。