2016年6月24日金曜日

【俳句新空間No.3】秦夕美作品評 / 大塚凱



  雲ながれ御用始の礼一つ
御用始は謂わば官公庁の仕事始にあたる。ひろびろと晴れた冬青空のもとで、新年はじめての公務がはじまろうとしている。正月休みで弛んだこころも、「礼一つ」で引き締まる心地がするのだろうか。ましてや官公庁、そのはじまりの「礼」の力強さはいかほどのものだろう。

  かにかくに天狼打てる御者の鞭
やや時代がかった情景ではあるが、御者の躍動感をいきいきと描いている。「かにかくに」というある種の誤魔化しが、御者の鞭のスピード感を生んでいるのかもしれない。「天狼」という文字から想起される獣の力感、そしてその光の鋭さが御者の動きに投影されているかのようである。「かにかくに」の入りから夜空の広がりを想像させ、すぐに「鞭」へと収斂させていく構図の大きさが魅力であった。

 作品全体を見ると、

死者係御中こちら八手咲く
 
御形つむ喜寿の朝まで生きようか 
冥府への定期便出づ木菟の森
のように、主に死を主題にした一連であると思われる。しかしながら、「死」を主観的に詠んだ作品よりは、掲句のような「生」の場における作品の方に力強さを感じた。

2016年6月17日金曜日

【俳句新空間No.3】中西夕紀作品評 / 大塚凱


 一島を工場とせり百合鷗
例えば東京湾湾岸には、それぞれの用途に合わせて計画された埋立地が多く存在する。具体的な名称は存じ上げないが、一島まるごと工業用地として埋め立てられた島もあるだろう。百合鷗がいかにも舞っていそうである。鷗の白さと工場の色彩も、互いにオーバーラップするかのようだ。

  弟を前へ押し出し餅配り

 一読して、石川桂郎の〈入学の吾子人前に押し出だす〉がほのかに思われた。「入学の吾子」はこの「弟」よりも幼いであろうが、作者が作中の「弟」に抱く気持ちと通ずるものが感じられる。「餅配り」に際してどこか弟の顔見せをしているような気配すらある。少しはにかむようだがぎこちない表情をしているかもしれない。そんな弟を取り囲む生活の場の有り様が想像される。

  牛肉に記す牛の名雪催
「牛の名」といっても一頭ごとの名前ではない。つまり、「ブランド」である。松阪牛なら松阪牛、と牛の個体は「牛の名」のもとに一括りにされ、埋没する。個体名があるにしても、それは数文字列にすぎず、我々消費者の意識するところではない。そんな現代性を帯びたはかなさに、雪は降りかからんとしている。

2016年6月10日金曜日

【俳句新空間No.3】仲寒蟬作品評 / 大塚凱



 確かに新年は、一年を通して最もナショナリズムを湛えた時期であるかもしれない。戦争と言えば現在は夏や初秋に詠まれることが多いが、太平洋戦争開戦直後に詠まれた俳句の中には聖戦を寿ぐ新年詠も多数含まれていた。本作は挑発的あるいは皮肉なまなざしで、戦争と平和を詠う。

  若水を闇もろともに汲み上げぬ
大抵は清冽なものとして詠まれてきた若水も、作者のまなざしは「闇もろともに」汲み上げられるものとして捉える。どこか不穏さに包まれた、それでいて闇の霊気を湛えた有り様は、若水の詠みぶりとして興味深い。作品の中において暗示的な一句である。

  喰積の海老も帆立も輸入品
風刺的な一句。ともすれば川柳の域に触れてしまいそうではあるが、作者の憂いがユーモアの中に息づいている。明るさや軽みに満ちた詠みぶりならば、めでたさを裏切るような内容も豊かな意外性として味わいたい。

 一連の作品には〈大東亜共栄圏が初夢に〉〈破魔弓をかの国へ向け放ちけり〉のような、作品の文脈や時勢を離れれば危ういと取られかねない句も含む。個人的にはこれらのやや観念に寄った句よりは、前掲のような裏切りを孕んだ句を楽しみたい。それが作者の魅力ではないか。

2016年6月3日金曜日

【俳句新空間No.3】佐藤りえ作品評 / 大塚凱



 新年詠ではない、殺風景な冬の表情で統一された二十句作品であった。〈けもの道朽ちてもゐない木を踏んで〉〈総括せよ氷湖のあをいテーブルに〉などほのかな屈託を含んだ詠みぶりである。

  ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ

 感覚的な詠みぶりが魅力の作者である。「氷柱となるまで立つ」という言葉の力強さに惹かれた。涙は冷たく、それこそ氷柱のような鋭さで流れていたのだ。からだが冷え、悴み、やがて凍てるまで立ち尽くす情念である。ひとしきり泣いたあとの、その涙すら渇いた心そのものが立ち尽くしているかのようだ。心まで悴んだ人間が行き着く先の感覚である。

凍鶴を引き抜く誰も見てゐない
「凍鶴を引き抜く」。多分に感覚的な詠みぶりであるが、不思議な質量を伴った表現だ。それはおそらく、「引き抜く」という作者の想像が、凍鶴という「物体」の質感を伝えるからではないのか。作者はその頭の中で、確かに硬直した凍鶴を引き抜いたのである。しかし、そんな空想は「誰も見てゐない」。氷る野の広さに立つ、一羽の凍鶴とひとりの人間。一種の暴力性を孕んだ想像は、誰にも知られていないさびしさを湛えて、作者を貫くのである。きっと凍鶴の鋭さで、「わたし」を貫くのである。