2017年2月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [池田澄子] / 大塚凱



  
 
  東京広し銀杏落葉を踏み滑り 池田澄子


 「滑り」で一句になった。穏やかな秋空の下で、作者は銀杏並木を歩いているのだろう。普段はめったに意識しない東京の広さを、「踏み滑」ったときに意識したのである。そもそも、「東京の広さ」とはなんであろうか。たしかに、東京は世界の大都市と比べても面積が大きいけれども。しかし、滑った作者が仰げば、高層建築が空を押し広げている。銀杏の木々の上には澄んだ青空が広がっているだろう。滑ったときに仰いだそんな「東京の広さ」。そして、そのように滑ってしまった自分ひとりが、広い東京のなかで「ここに在る」という心地。蟻のようにあふれる東京の人間のひとりでありながら、並木道のなかでひとり滑ってしまった。そんなちょっとした恥ずかしさがユーモアの中に描かれている。

2017年2月17日金曜日

【俳句新空間No.3】豊里友行作品評 / 大塚凱


  小鳥来る我が煩悩と遊ぼうよ
「煩悩と遊ぶ」ということがどのようなことなのか僕にはわからない。わからないが、この句からは右肘を膝につき、さながら「考える人」のかたちで小鳥を眺めているような人物が見えてきたのである。どこか孤独なこころが小鳥の存在を求めているかのような詠みぶりだ。その一方で、「遊ぼうよ」にはなげやりで自虐的な含みをかすかに感じるのである。

  東京は春鍵盤のビルの海
都会がビルの海であるという把握には既視感を感じるが、「鍵盤」という一語が句を豊かにした。黒鍵と白鍵のような街の陰影、春の音色などが感じられてくる。

 本作品は他の二十句作品とは異なって、十句作品と「『桜』に見る季語再考」という文章から成っている。せっかくなので、文章にも目を向けたい。歳時記が春夏秋冬で区分されていることで「季節の多様な世界を俳句では詠めない」と述べた上で、沖縄での季感を異にする大和・江戸での季感で歳時記が決定されている現状を「中央集権的」だと批判している。前掲した「小鳥来る」の句が〈出稼ぎの父と雪来る上野駅〉と〈桜ひとくくりに活ければ 日の丸〉の間に並べられていることはその批判に基づくのだろうか。しかし、「上野駅」の直後であれば「小鳥来る」は東京であると解釈するのが自然であり、この句順はむしろ東京における「季節の多様な世界」に背いている。季節の変遷を、句を読み進めるスピードに伴って表現できることが、連作形式のひとつの効用であると僕は信じている。沖縄特有の季節感も同様に表現可能だろう。「季語再考」を謳うのならばせめて、この十句作品でそれを貫くべきではないだろうか。

2017年2月10日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [西村麒麟 ] / 大塚凱



  
  泳ぎゐる一塊のしめぢかな     西村麒麟  
  しめぢ又たぷんと浮かび来たりけり 同  
  沈めたるしめぢのことを思ひ出す  同

秋興帖の西村麒麟五句から三句を掲げた。五句全て「しめぢ」が季語である。「しめぢ」を執拗に描写する作者のまなざしにかすかな畏怖すら覚えた。「泳ぎゐる塊一塊」「又たぷんと浮かび」は「しめぢ」の質感を素直に描写していて妙。作者はキッチンの水にたゆたう「しめぢ」を慈しむが、両者には調理する者と調理される者という一般的な関係性が保たれている。ここに、読者が読みを深める隙が存在しているのではないか。そのドライな偏愛が〈沈めたるしめぢのことを思ひ出す〉に凝縮されている。

2017年2月3日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [小林かんな] / 大塚凱



  星涼し奴婢の運びし石の数 小林かんな
ピラミッド然り長城然り、古代の遺跡の莫大な石を運んだのは奴婢であったか。「石の数」という下五からは、巨大な石の壁を目の前にして驚嘆や畏怖の混ざり合った心地が感じられる。かつての奴婢と、ここに居る私。恐るべき石の姿と、それを見ている私。「星涼し」から広がる時間と空間である。どこか異国の香りのするのも、「星涼し」のこころだろう。